「つくる人」と「つかう人」のこだわりを追求する

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祖父が買った『宮大工全集』がモノづくりの原体験――牧田恵里社長:tsumug historie

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人に歴史あり――。連載「tsumug historie」は、株式会社tsumug(ツムグ)のチームメンバーがこれまでどのような道を歩んできたかをひも解いていきます。第1回は、tsumug社長の牧田恵里(まきた・えり)のお話です。


1982年生まれの35歳です。よくハーフかと聞かれますが、父がイギリス人で母が日本人です。名古屋市の隣の愛知県東海市出身で、生まれてすぐに東京に来ました。IT界隈ではメルカリ創業者の山田進太郎さんなど名古屋近辺の出身者が多くいます。毎年1月2日には「名古屋会」なるものが開催されていて、名古屋に住んでいる人や正月に帰省したIT界隈の人みんなで、市内の熱田神宮にお参りに行くこともあります。

麹町と名古屋を行き来した幼少期

両親は私が小4の時に別居し、それからは母と2つ下の弟、5つ下の妹と4人で暮らしていました。妹は体が小さい方で、小学校低学年で体重が20kgいかないくらいでしたが、逆に私は高学年の頃には160cmを超えていたので、妹とはよく親子に間違えられていました。母親はとてもよく働く人であまり家にいなかったので、実際、わたしが親代わりになることもしばしばありました。

これ、初対面の人にもネタにして話しちゃうんですけど、母親は30歳で私を産んで、40で別れ、起業して、50で末期がんになって60で自己破産してるんです。だから今は70歳が楽しみだねなんてよく話しています。私たちきょうだいの人生を語る時には、そんな母親の波乱万丈な人生に巻き込まれていく子どもたちみたいな構図になります。

両親が別れるまでは千代田区の麹町に住んでいました。麹町には番町と呼ばれるエリアがあって、一番町〜六番町まであるんですけど、そこは昔のお屋敷町で当時もまだお屋敷がありました。大使館も多いので、休日に父と一緒にイギリス大使館のパーティーへ行って、ブリティッシュガーデンで色のついたクッキーやケーキを食べたり、プールに入ったりもしました。私にとって、外国はいつも身近にあって、異文化に触れる機会も多かったですね。

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とは言っても、当時はハーフがかっこいいなんていうことはなく、むしろ親世代の人たちが「あそこの家は外国人の子どもだから遊んじゃダメよ」などと言う時代でした。小学校でも低学年から中学年くらいで必ずと言っていいほどいじめにあうんですよ。私に限らずきょうだいみんなそうでした。そういう環境で育ったので、両親の別れや母親の破天荒さなど、周りから見れば変わった生い立ちだと思いますが、自分にとってはそれが当たり前の環境でした。

こんな少し変わった生まれを持つ私がどのようにして今に至るのか、お付き合いください。

おじいちゃんの家で過ごした日々がルーツに

両親の仲は不安定でしたけど、そんな時はよく東海市にある母方の実家に帰っていました。だから小1の時にはすでに東京駅から名古屋駅まで1人で新幹線に乗って帰っていました。駅に着くとおじいちゃんが待っててくれるんですけど、おじいちゃんは几帳面な人なので私の席番号まで覚えてくれてて、いつも列車が停車した時にわたしの席の真横にいるように待っててくれました。

私はすごくおじいちゃん子だったんですけど、牧田家は女性が強い家系で、おじいちゃんも入り婿(婿養子)でした。おばあちゃんは地主の娘でやたらと怖いんですけど、おじいちゃんはその後ろで黙っていて、でも優しくて発言力もあって、すごい人だって思ってました。おじいちゃんは高校の校長で、その後はみかん農家を営んでいましたが、私はちょうど校長を定年した後で生まれた孫だったので、一番可愛がりやすいタイミングだったこともあり、私もよく懐いていました。

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小2の夏休みにおじいちゃんが脳梗塞で右半身不随になってからは、学校の長期休み中は休みに入るその日に名古屋へ行って、休みが明ける前日に帰ってくるぐらい、ずっとおじいちゃんの家にいました。

半身不随で言語障害もありましたが、何が起こってるいかはしっかりわかっていて、おじいちゃんと一緒に野球や相撲を見たり、農作業をしたりして過ごしました。

おじいちゃんの家は古い日本家屋で、一番奥の部屋は「宮造り」という釘を一切使わない伝統工法で建てられていました。私はその空間が大好きで、それを当時おじいちゃんに言ったら、『宮大工全集』という全14巻のVHSを買ってくれたんです。それからしばらくの間は繰り返しそれを見ていたので、この頃から宮大工師になりたいと思うようになりました。今の仕事に繋がっているのかはわからないけど、ものづくりの美しさには当時から心惹かれるものがありました。

母の起業、海外純正インクの市場を日本に


両親は英会話学校のベルリッツで出会い、父がプログラマーとして起業するということで、母も退職して一緒に会社を立ち上げました。当時は海外企業の東京支社向けに会計システムを作っていたんですが、競合がいなかったので会社もそれなりに大きくなりました。

でも結局失敗した事業もたくさんあり、父と別れた母の元には借金が残りました。それで母はお金を借りにおばあちゃんに頼ったんですけど、親の反対を押し切っての国際結婚だったため、「だから言っただろ」と追い返されてしまったらしいです。それもあり、母は私たちを育てるために、今自分にあるもので売り上げを立てて生計を立てるしかないと決意して、知り合いから500万円を借りて起業しました。

はじめたのはインクのトナーカートリッジの並行輸入。当時まだ存在しなかった海外純正インクの市場を日本に持ってきたのが私の母なんです。台湾キヤノンと組んで製品を輸入していたこともありました。当時は粗利が40%くらいあったようで、立ち上げの翌年には売り上げは5億まで伸びました。

母が別居して起業したその時期、小4の3学期から小5の1学期まで、私たち兄弟はおじいちゃんの家に預けられていました。実はこの時、父が住民票か何かを送ってくれなかったらしく、転校手続きができなかった影響で、3ヶ月間、小学校に行っていません。

その間は、家で弟と一緒に学校ごっこをやっていました。弟は2つ下でしたけど、すごく算数に強い子だったので、先生と生徒役に分かれ、階段の段差を教壇に見立てて、広告の裏紙を利用して一緒に算数の勉強していました。とはいえ、さすがに勉強不足の感は否めず、当時学校で扱われていた比の計算は今でもめちゃくちゃ苦手です。

その頃まで、おじいちゃんが甘やかしてくれた影響もあって、わがままでお嬢さん気質ではあったんですけど、家族以外とはあまりコミュニケーションを取りたがらず、図書館へで椋鳩十(むく・はとじゅう)を読んでいるようなおとなしめの文学少女でした。

でもこれくらいの時期からやたら活発に遊ぶようになりました。もしかしたらこの期間、学校に行けなかった反動かもしれないですね。ずっと家で弟と一緒にいたので、友達と遊びたいとか家族以外の人とコミュニケーションとりたいって思っていたのかもしれません。(第2回へ続く)

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