「つくる人」と「つかう人」のこだわりを追求する

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母の余命宣告でビジネスの世界に――牧田恵里社長:tsumug historie

前回の記事では、株式会社tsumug(ツムグ)代表の牧田の小学生時代までを振り返りました。イギリス人の父を持ち、国際色豊かな幼少期を過ごしたこと、大好きだった祖父の影響で、宮大工師になりたいと思うようになったことなど、現在に至るバックボーンを発見することができました。

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中高生時代 環境変わり開放的に

中学校はそのまま地元の麹町中学校に上がるんですけど、その頃に宇多田ヒカルが流行り始めて、そこからハーフや英語をしゃべれる人の人権が高まっていった気がします。今まで「あの子と遊んじゃいけません」と言っていた近所のお母さんが憧れの目で見るようになったり、子どもをアメリカンスクールに通わせることがステータスになったり。

その上、中学で英語の授業が始まると、私は発音が他の子よりも良かったせいで、いつも先生から当てられるようになりました。ただ、そういう環境になんとなく抵抗を感じていて。だから英語は苦手でしたね。

中学でもやっぱり美術の授業とか何かを作ってるのが好きでした。美術のおじいちゃん先生からは「こいつ変なもん作るな」みたいな感じで結構厳しく指導をされてたんですけど、それがかえって面白くって。夏休みの宿題で「絵を1枚以上提出」と言われると1人だけ3枚くらい出していました。絵だけじゃなくて、銅版画や刺繍、裁縫、革細工なんかも自分で作っていました。母のお眼鏡にかなうものは作ったそばからどんどん母のものになっていくんですけど、それも嬉しくて。

数学も嫌いではなかったですね。母から「数学は将来使うから絶対やておきなさい。できるならなるべく理系に行きなさい」とずっと言われていた影響です。社会は苦手で、歴史に学ぶと言われてもピンとこなかったんです。今では「もうちょっとやっていれば」とは思いますが、教科書記載の年号が間違っていたなどと聞くと、「ほれみたことか」と思うこともあります。運動も好きで、テニスを始めました。部活動では硬式テニス部がなかったので、放課後、スポーツクラブに通っていました。そのあともテニスは大学まで10年ほど続けました。

私が通っていた時代の中学校は結構荒れていて、先生いじめがすごく流行ってたんですよ。理科準備室にの鍵穴にガムを詰めて先生を閉じ込めたりとか。先生もストレスが溜まって「俺だって本当は警察官になりたかったけど、身長が足りなくてなれなかったから教師になったんだ」なんていきなり言い出すこともありました。だから、先生に対しては尊敬よりも、「先生も人間なんだな」とう感覚が強かったですね。

私はというと、そんな先生を困らせる問題児に好意を持っていました。自分で抑え切れない何かを抱えて、気持ちが行ったり来たりしている様に心を奪われていました。家庭や学校の環境が抑圧的だった影響か、そういう感情を素直に外に出せる人に憧れがあったんだと思います。

私が中学3年生になると、2つ下の弟は暁星国際の中等部に入学し、木更津(千葉県)の寮に入ることになりました。それに続いて、翌年私も同じ学校の高等部に入学し、女子寮へ入ります。

弟が入寮してからは月に1回ほどしか家に帰って来ないので、母も弟に愛情を注ぐようになるんですよね。その上、弟の学校の先生は皆すごく面白い人ばかりで。それで、母の興味を引きたいというのと、先生を尊敬できる場所へ行きたいと思い、弟と同じ学校への進学を決めました。

高校も医者の息子や議員の息子も多く、授業参観になると駐車場代わりの中庭に高級車が並んでいました。学校があったのは木更津の片田舎で、すぐそばにダムがあるような場所だったので派手な遊びはほとんどしませんでしたが、刺激が多い学校生活でした。夜に寮を抜け出してみんなで流星群を見に行くこともあり、毎日が修学旅行気分でした。また帰国子女が多い国際色豊かな学校で、2年生の頃には、東京大学進学のために校長からスカウトされた中国からの留学生がやってくるなど、異文化との接点も常にありました。

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高校の文化祭での牧田(写真左から2人目)

初恋も高校時代でした。相手は担任の現代文の先生でした。先生は落語研究会の顧問だったので、少しでも一緒にいたいと思い、私もテニス部と落研を兼部していました。とはいえ落語自体には全く興味がないので、先生がいない時は部室の隅にあったピアノを弾いて遊んでいましたが。当時はポケベルで先生にメッセージ送っていましたね。はたから見るとあからさまに好きだとわかる態度だったと思います。1年生の終わりのある日に突然、先生が函館の学校へ行くことを知らされたので、その時はすごくショックでした。クラスメイトもみんな私が先生のことを好きだったのを知っていたので、話があった時は一斉に私の顔を見てきましたね。

私は理系のクラスに所属していました。寮では勉強以外することもなかったので、気づいたらクラストップの成績になり、指定校推薦で東京理科大学の建築学科へ進学することができました。

当時も小学生の時から変わらず宮大工師になりたいと思っていたので、高校を卒業したら宮大工師になろうとしていました。ですが、当時はまだ宮大工に女性棟梁が少なく具体的なイメージが持てなかったいなかったことや「宮大工になりたい」と言うだけで周囲から笑われたこともあり、徐々に宮大工になるという思いが揺らぐようになりました。最終的には、母からの「お父さんがいないからせめてあなたには大学に行ってほしい」という希望もあり、大学への進学を決めました。

大学生時代 母親の危篤とビジネスへの接点

大学のキャンパスがあったのは千葉県野田市で、高校と同じく田舎での学生生活でした。小学生から続けていた硬式テニスを大学でも続けました。早朝5時から自主的に朝練をしたり、ウェアのまま授業に参加したりとかなり本気で取り組んでいたんですが、対外試合では精神的な弱さが原因なのか、良い戦歴を残すことはできませんでした。

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大学のテニス部時代の牧田(写真右)

大学時代は家族内でもいろいろなことがありました。

大学入学後まもなく、おじいちゃんが亡くなります。私は18歳で、女性最初の厄年でした。おばあちゃんには「女の厄は、死ぬか孕むか。だからおじいちゃんが死んで代わりにお前の厄を持ってってくれたんだ」とだいぶ無茶苦茶なことを言われた記憶があります。

また大学3年生の就職活動真っ只中の時期に母親に病気が見つかります。第1回の記事の冒頭でお話しした通り、母は40歳で離婚と起業、50で末期がん、60で自己破産という壮絶な人生を送っているわけですが、「50で末期がん」というのがそれです。

私の誕生日に母と一緒に、教会へゴスペルを聴きに行ったんです。その翌日、母が「お腹の調子が悪い」と言うので、「教会で悪いものに憑かれたのかな」なんて冗談交じりに話していたんですが、体調が悪化したため救急で病院へ行ったら「末期のすい臓がんです。もって1週間です」と言われて。

会社も経営しているし、子どもも、成人しているのは私だけだったので、かなり動揺しました。

その後、セカンドオピニオンで7つの病院をまわったんですけど、全部同じ診断でした。受診したとある先生からは電話で「あーあのお母さんね、あの人ね、もうだめだよ、お腹開いたらさ、がんで壁できてるようなもんだから。家帰ってお母さんのお腹触ってみなさい。固い所全部がんだから」と言われました。

ただ結果的にこれが全部診断ミスだったんです。実はすい臓がんではなくて悪性のリンパ腫だったので、末期状態には変わりありませんが、抗がん剤がよく効く病気だったんです。

母のお腹は腹水で臨月のように膨れてしまって、そんな状態で病院をまわっていたんですけど、母の友人が世界的な医療機器メーカーの役員で、その人が世界中から母親の症状を治療できるお医者さんを探してくれたんです。そうしたら、たまたま広島に放射線の権威がいて、その方がたまたま東京にいて「5分間だけ時間取れたからすぐに行ってくれ」と言われて診察を受けて入院していたところ、診断ミスが判明したんです。年末年始で病院も忙しかったので、1泊5万8000円という当時の私の月の家賃よりも高額な特別病棟に入って優先的に治療を受け、なんとか治りました。

実はこの時、母は中国企業との新たな合弁会社の立ち上げ時期でした。ちょうど日本で1円資本の会社を作れる制度ができた時でした。資本金1円とは言っても、設立して数年後に増資を行いましたが。

母の病気が判明するまで、そのことは会社にも銀行にも言えない状況だったので、お腹が隠れるような洋服を着て海外の株主やメーカーが集まる決起集会に参加していました。当然英語での会話ですが、母はずっと参加できるような容体ではないので、途中で席を外していました。その間は私がテーブルの下でICレコーダーで会話を録音しながら、わからない英単語をひたすらメモしていました。私にはわからない話ばかりだったので、録音した内容をもとに後から母親に質問をして、必死に理解しようとしていましたね。母の海外出張には私も勉強のためによく同席させてもらっていましたが、まさか実際に自分が何かをやらなければならない状況になるとは思っていなかったので、死に物狂いでした。

中国のメーカーとのビジネスでしたが、日本とは違う彼ら独自の視点に触れたり、母親が騙されるのも何度も見ていたりしたので、この時の出来事がきっかけで「この業界を知らないと家族が死んじゃうかもしれない」という気持ちが強くなりました。(続く)

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