「つくる人」と「つかう人」のこだわりを追求する

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25歳にして5億の返済に奔走した会社員時代――牧田恵里社長:tsumug historie

前回の記事では、中高生時代の恋愛模様から、母の病という突然の出来事に翻弄された大学生時代までを振り返りました。危篤と診断された母に代わって会社を支えるため、初めてビジネスの世界へ足を踏み入れた牧田のその後は――。

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アメリカ人エンジニアの言葉でソフトウェアの世界に

母の病気が原因で大学3年の12月に就職活動を一旦ストップしていましたが、翌2月に母が社会復帰すると、それまでの生活とは打って変わって、やることがなくなってしまいました。

就職活動を再開するにも中途半端な時期だったので、空いた時間を使ってニューヨークの知り合いのもとに1カ月半ほど滞在しました。建築学科だったので、ニューヨーク滞在中は構造設計事務所などでアルバイトをしていました。

ある日、職場のアメリカ人エンジニアと飲みに行く機会がありました。皆から天才と言われるスーパーエンジニアでしたが、そんな彼が「俺には日本人のコードが真似できないんだよ。日本人の書くコードは本当に美しくて無駄がなくて、俺には書けないんだ。日本人プログラマーを尊敬する」と言うんです。

私はその言葉にグッときました。「日本人すごい!」と思い、この言葉がきっかけで、日本のソフトウェア企業で働きたいと思うようになりました。帰国してからは就職活動を再開し、志望通りサイボウズに入社できました。

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ニューヨーク滞在中の牧田

母の反対を押し切りサイボウズへ

当時のサイボウズは東証2部の時代で、創業者の高須賀宣(たかすか・とおる)さんが社長(在任1997年~2005年)の時代でした。私にはITの知識は全くありませんでしたが、就職説明会でサイボウズの商品説明を聞いた時には「これなら私も売れる」と思ったんです。パッケージ製品で、お試しも可能で、操作も簡単、ライセンス体系もわかりやすい。それが入社の決め手でした。

ただ、母には「そんな得体の知れないところじゃなくてもっと大きい会社へ行きなさい」と反対されました。この時、採用担当してくださってた山田理(やまだ・おさむ)さん(現副社長)に母親の反対について話したら「お母さんに説明に行ったる」と言ってくれて。母に伝えると、「それは面倒だ」と折れてくれました。

でもこの話には続きがあります。入社した後に気づいたんですが、母の会社に高須賀さん始め、青野さんと畑さんの創業メンバー3名の名刺があったんです。その当時はサイボウズは人数が少なかったので、営業で各地を回っていたようで、その時に母親とも会っていたようです。母もそれを思い出したようで「あの時の会社がサイボウズなのね。」なんて言っていました。

私が入社したのは新卒採用2期目で、かっちりとした新入社員の研修制度もまだあまりなく、OJTとして全ての部署でいろいろな体験をさせてもらいました。

職種にこだわりはなかったのですが、エンジニアは考えていませんでした。大学時代、Fortran演習の授業があって、頑張ってコードを考えて書くんですけど、出てくるエラーの数が桁違いに多くなっちゃうんですよね。だからエンジニアだけは私には向かないなと思っていて。

行動力で営業売上100万円達成

1年目で印象に残っているのは営業研修の「100万円チキチキレース」です。何を売っても良いから売上100万円を達成するまで終われない研修です。当時の営業部長が野村證券出身の厳しい人で、毎日、その日の目標の訪問件数と名刺の獲得枚数を宣言して営業に行き、達成するまで帰れませんでした。今ではさすがにこの研修はなくなったみたいです。

研修の意図として、効率的に達成するために頭を使って考えることが求められていたんですが、私はまずやってみてから考えるタイプだったので、手当たり次第、家の近くから営業に行きました。

どうしても目標に届かない時は、夜の秋葉原駅で会社帰りの人たちを捕まえて名刺をもらうこともありました。1週間で5kg痩せて、母からは再び「そんな会社早く辞めなさい」なんて言われていました。

研修を終え、私は営業部に配属が決まります。配属先の上司から最初に言われたのが「営業先は男性が多いので、女性は男性より営業ができて当たり前。110%、120%の結果を出してようやく男性と同じレベルで評価する」ということです。現在なら男女差別だと言われそうですが、そういう時代だったのかもしれませんね。

営業部は法人営業のみで、パートナーとなる代理店の新規開拓が主な仕事でした。

最大のパートナー企業を担当した3年間

1年目の後半には、サイボウズにとって当時一番大きなパートナーだった大塚商会の担当になりました。私がセミナーで話していた様子を大塚商会の方が見て、私を指名してきたそうです。大塚商会がサイボウズの営業代理店として商品を売るのですが、大塚商会には営業が数千人いて、日々対応するお客様の件数も多いので、サイボウズ側へ多くの要望が来ます。大塚商会の担当になると、それらの要望をサイボウズ社内に伝えなくてはいけないので、社内のメンバーとのコミュニケーションが取りにくくなってしまうと感じていたんです。社内のメンバーとは比較的仲良くしていたので、担当になることでその関係性が崩れてしまうのが怖くて、最初は担当になるのを断っていました。

会社からの命令なので、渋々担当になりましたが、当初はやはり大変な生活でした。

大塚商会では、社内にメーカー常駐席を作り、密にコミュニケーションとることで売上を伸ばすという新しい施策を始めることになりました。そのため、私は朝9時から大塚商会のオフィスに常駐し、18時にそのままサイボウズへ行って終電まで仕事をするといったほとんどダブルワークの状態でした。

大変ではありましたが、このタイミングでサイボウズのスタートアップ企業としての文化とそれとは対照的な大塚商会の持つ大企業の雰囲気を両方とも経験できたのは面白かったです。

今でこそ感謝していますが、当時は厳しかった上司を見返してやりたいという気持ちも強く、そのためにも最大のパートナーであった大塚商会の役員と仲良くなるために何をすべきか、社内でどういう動きができたら大塚商会の方々が面白いと思ってくれるかを必死に考えていました。

それらが実り、大塚商会の役員の方が私を特に評価してくれて「俺の名前出しても良いから営業に関しては好きにやれ」と言ってくれました。そのことが私の上司の営業部長に伝わると上司が慌てて確認にきてうろたえていましたけど、その時は気持ちよかったですね。

結局、大塚商会の担当が1年目の終わりから3年目まで続きます。

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サイボウズ勤務時代の牧田、右は当時サイボウズ取締役副社長の青野慶久さん

母の会社が5億の返済で倒産危機に

しかし3年目の終わり、12月に母の会社が資金繰りで苦労し、倒産の危機を迎えました。

母の会社はハードウェアの流通をしているので、事業の性質上、毎月の資金繰りはいつも大変でした。昔は月末にお小遣いをせびるとよく怒られていました。

この時、月初の返済金額が1億円で、半ばに3億円になり、月末には5億円に膨れ上がりました。

当時はわからなかったですが、シンジケートローンでお金を借りていました。シンジケートローンとは、取りまとめ役の金融機関(アレンジャー)が複数の金融機関を集めて、一斉に多額の資金調達を行うタイプの融資です。金融機関からの大きな信用が必要となるシンジケートローンの実行は会社にとって非常に価値あることなんです。一方で、アレンジャー以外の金融機関は社長と対面で話しているわけではないので、会社の数字が悪化すると、その数字でのみ判断するアレンジャーの先の金融機関はどんどん抜けてしまい、借入が停止してしまうことがあります。

この時はリーマンショックの影響で多くの会社が数値を落としていましたが、特に母の会社のようなハードウェア貿易を扱う会社はその影響を受けやすかったんです。その結果、返済金額は膨らんでいきました。

しかも返済期限は年明け1月9日13時と猶予がなかったので、年始にはサイボウズから休みをもらって返済の手伝いをしました。母親が返済に奔走している間、社内や金融機関、株主の対応などをサポートしていました。

無理やり期日に一括返済しましたが、返済が終わった後は母も私も放心状態でした。達成感と、でもこの先お金がないのもわかっていたので、その不安を抱えながら、会社があった赤坂の外堀通りを2人で目的もなくしばらく歩いた記憶があります。

この時「生きるか死ぬか」の恐怖の中で本気で仕事をしたことで、その本気度の中毒状態になり、サイボウズを退職して母親の会社で働くことを決めました。

私が入社した時は「社長の子どもが来たよ」という感じで、社員からの信用は全くありませんでした。彼らの信用を得るためにはどのような仕事をしないといけないか、と言うのが入社最初のチャレンジでした。

上司としての母に触れた3年間

入社して改めて会社を見渡すと、問題点が多く見つかりました。当時の私にはショッキングなことでしたが、お金まわりで悪さをしている人が結構いたんです。サイボウズにいた頃は、みんなが前を向いて走っていたので、悪さをするなんて考えられなかったんですけど、この時に初めて、同じ会社の中にもそういう人がいるんだという事に気づかされ、涙していたのを覚えています。

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母の会社に転職した直後、APEC WLNの展示会参加時の牧田(写真右)

だから、入社してすぐに私が経理業務を引き継ぎました。決算数値などを見て「会社を運営するってこんな辛いことなんだ」とか、「私たちは母親がこういう苦労をして稼いでくれたお金で生活してきたんだ」とか、すごく辛い思いをしながら事業を作ってくれていた母をこの時知りました。

その他にも、お金を作るために売上を立てる、コストカットする、利益を増やすというシンプルな目標で様々な手を打ちました。経理を見直してコストを削減したり、新規事業を立ち上げて利益率の高い商品を作ったりしました。

しかし、海外との取引でハードを仕入れるにも前金が支払えないので、それをまたさらに借りてくる状態でしたから、利益を出すところまでもっていくことは、難しかったです。

そんな資金繰りが3年続きましたが、最終的には負債が20億円まで膨らんで会社は倒産しました。

倒産の1年ほど前から「早めに会社を清算したほうが良い」と母と話していたのですが、母はずっと悩んでいました。「これから先の事を考えても早めに閉じた方が良い」と伝えているにも関わらず母がその決断をできないのは、その時は情に流されているんだと思っていました。

でも実際はそう単純なことではなかったんです。会社を清算する上で、社長である母と私を含めそれ以外の社員の間には、法人格の責任に対する認識に大きな溝があったのだろうと感じます。ある経営者が、会社は「子供のようなもの」だと話していましたが、母親にとっても20年間育て上げた会社を閉じるという判断には、まさに子供を見捨てるような苦悩があったはずです。

私はそんな母の姿を一番近くで見ていて、そういう苦しみから母を解放してあげたいと思う一方で、自分が家族全員を養うイメージは持てませんでした。だから「会社を閉じよう」と口では言えても、覚悟の伴わない提案しかできていなかったんです。

最終的に倒産はしましたが、母の会社で働いた3年間は、女性としての母、親としての母、そして働く上司としての母も見ることができたすごく貴重な親子の交流の時間でした。(続く)

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