連載「tsumug historie」は、tsumug(ツムグ)のチームメンバーがこれまでどのような道を歩んできたかを紐解いていく企画です。第2弾となる今回は、シニアエンジニアを務める椚座淳介(くぬぎざ・じゅんすけ)のお話をお届けします。
- 前職2社でのスキルがtsumugでの開発に活きている
- プラモよりもミニ四駆、電子工作に没頭した幼少期
- 中学生で初めてのパソコン牛柄模様の「Gateway2000」
- 20代で自作PCに100万円、5年前に一転ノートPC派に
- 英語BBSを参考に、独学でサーバー知識を学んだCDS-Net時代
- 前職エイビットでsakura.ioの設計を担当、tsumugでも採用
前職2社でのスキルがtsumugでの開発に活きている
1979年生まれの39歳、出身は大阪です。父親がプラントエンジニアだったこともあり、私の一家は引っ越しを繰り返す転勤族でした。大阪に始まり、奈良、山口と、各地を数年おきに転々とし、高校のタイミングで再び大阪へ戻ります。その後、就職を機に神奈川に移り、現在は東京在住です。
さまざまな土地で暮らした経験から、場所へのこだわりは特にない方だと思います。関東在住期間が約20年になるので、東京の言葉も話せますし、もちろん大阪弁もしゃべります。tsumugのメンバーとも大阪弁で話したり東京の言葉を使ったりとマチマチです。
前職は通信機器を手掛けるエイビット(ABIT)です。BtoB向けの通信機器の他、コンシューマー向け製品としてワイモバイル(旧イー・モバイル時代なども含めて)向けPHSも開発・製造していましたので、ご存知の方もいるかもしれません。
前々職はCDS-Netです。インターネット黎明期に活躍したISP(インターネット・サービス・プロバイダ)の1つとして知られる会社です。この2社での約20年に渡る仕事の中で、電子回路設計、通信技術、プログラミング技術、生産技術などを身に付けましたが、それらのスキルの全てが現在tsumugで開発している「TiNK(ティンク)」に活きています。
プラモよりもミニ四駆、電子工作に没頭した幼少期
振り返ってみれば、幼少期からの興味が今の仕事に繋がっています。
技術者の多くは、子供の頃から工作や理科が好きだと思いますが、私もそうです。乾電池や豆電球で遊んでいるような子供でした。小さい頃から電気関係に興味があり、小学生高学年から中学生の頃には電子工作に没頭しました。
当時、「ラジオの製作」(電波新聞社、1999年休刊)という月刊誌があって、丁寧な製作記事が載っていたんです。それを見ていろいろと作っていました。「ラジオの製作」は、電子工作に関心を持つ若者には定番の雑誌でした。簡単なラジオ、LEDがパターンで光ったりするようなものなど、回路基板も含めていろいろな物を雑誌の掲載情報だけで作ることができます。私も「ラジオの製作」を参考に基板やパーツを買いに行き、いろいろな電子工作を楽しんだことを覚えています。改めて調べてみると、「ラジオの製作」は1954年創刊で、長い歴史を持った雑誌だったようです。
他にも「ミニ四駆」などにはハマりましたが、当時流行っていた「ガンプラ」を始めとするプラモデルには関心を持てませんでした。プラモは動きませんよね? 私はプラモのように飾って見て楽しむような模型には関心がなく、動くものだけが好きでした。
「動く」とは、ミニ四駆などのように走ったり物理的に動くものだけでなく、LEDなどで光るものも含めてです。最終的には「繋がるもの」、すなわち通信機能を持つものにも関心を持っていきます。前職のエイビットでも、その前に務めていたCDS-Netでも、結局は自分が好きな分野の仕事に携わっていたことになります。
ただ、学校の勉強にはあまり興味を持てませんでした。そこも振り切っていたんでしょうね。好きなことだけしかやっていませんでした。
中学生で初めてのパソコン牛柄模様の「Gateway2000」
最初のパソコンとの出会いも忘れられません。
私の最初のパソコンは中学生の時に親に買ってもらった「Gateway2000」です。白と黒の牛柄模様が目印のゲートウェイです。かつては有力なPCブランドの1つでした。
本当に嬉しくて嬉しくて今でも覚えていますが、CPUは33MHz、メモリは4MBで、Windows 3.1が動いていました。33MHzとかメモリが4MBとか、今では考えられないようなスペックですね。
それでも1990年代のパソコンの値段は新品で20〜30万円はしました。当時パソコンを持っている中学生は少なかったと思いますが、私の場合は父親がエンジニアだったこともありパソコンへの理解があったので幸運だったかもしれません。ただし、将来の仕事に活かすように、と言われてはいました。
当時はパソコン本体のみならず周辺機器もソフトウェアも高価でしたので、プログラミングへの関心を持ちつつもコンパイラなんて買えませんでしたので、プログラムはアセンブラで組んでいました。CDS-Net時代にはサーバー構築・運用に加え、必要なソフトウェアは自分でプログラミングしていましたので、パソコンの経験は仕事に活きたと思います。
20代で自作PCに100万円、5年前に一転ノートPC派に
Gatewate2000から始まったパソコン遍歴における次のマシンはDOS-V自作機です。Pentium 166MHzのCPUを積んだマシンを自作したことを覚えています。CDS-Netで仕事を始め、自作機を組んでいた頃は、毎週のようにアキバに行ってPCパーツを物色していました。
一度、フルタワーのマイマシンにいくらかかっているのか計算したことがあります。
総額100万円です!
IDEのハードディスクが足りなくなってSCSIも使い切って、全てのスロットが埋まっていました。ハードディスク、CD-Rドライブは複数台ありましたし、MOやカードリーダーなどもありました。独身で他にお金を使うこともありませんでしたし、マイマシンは超豪華仕様でしたね。
その後も使えるパーツは残しつつ、マザーボードやCPUなどを都度交換しながら自作のデスクトップPCを使いましたが、最終的にはノートPCに完全移行することになります。ここ5年くらい、デスクトップPCに火を入れなくなってしまい、結局捨ててしまったんです。
ゲーミングPCなどパワーが求められる特定分野を除くと、一般的な用途では、数年前くらいからノートPCで十分なパフォーマンスを得られるようになってきました。以前のようにデスクトップPCとノートPCとの間に明確な性能差がなくなってきたんですね。
それに、設置場所でしか使えないデスクトップと違い、どこでも使えるノートPCのモバイル性にも魅力を感じています。
今はTwitterを楽しんでいますが、昔はパソコン通信もやっていました。ネット上でのコミュニケーションが好きなのはその頃から変わっていないようです。
英語BBSを参考に、独学でサーバー知識を学んだCDS-Net時代
高校卒業後、神奈川に引っ越し、CDS-Netで働き始めました。CDS-Netとの出会いもネットの知り合いがきっかけです。
CDS-Netでは最初は電子回路など電気関係の仕事に携わりましたが、途中からISP(インターネット・サービス・プロバイダ)の仕事も担うことになります。ダイヤルアップ全盛期にプロバイダ事業もやり始めたわけです。
当時は中小企業が副業的にプロバイダ事業を手掛ける事例が多く、CDS-Netもその1つでした。Telnetを使ってOK、オリジナルのCGIとSSIも使い放題、そして低価格といった点を売りにして、最盛期には1万人ほどのユーザーを抱えていました。
サーバーの多くはFreeBSDで組み、必要なソフトウェアは自分でプログラミングし、運用・保守、障害対応などのサポート、Webサイトの制作、そして回線の発注も含めてプロバイダ事業の技術面は全て担当しました。といっても1人でやっていたわけではなく、CDS-Netの社長、私、もう1人の3人でやっていました。
一見大変そうに見える広範囲に渡る仕事ですが、一度作ってしまえば後はスケールさせていくだけなので、意外と回っていました。今なら考えられないと思いますが、当時は1人でも結構何とかなっていたんです。
サーバー関係の知識は全て独学で、FreeBSDなどのOSも書籍に添付されているCDからインストールし、右も左も分からない中、試行錯誤していました。当時は参考書籍も少なく、ネットの情報といっても日本語の情報は少なかったので、英語のBBSなども参考に、とにかくトライアル&エラーでやっていく部分が多々ありましたが、ソフトウェアが正常に動いた時には「動いた!」と感激しましたね。
しばらくは好調だったプロバイダ事業ですが、時代の移り変わりとともに衰退していきます。インターネット回線の主流がダイヤルアップからADSLへと移るタイミングで競争力を失っていきます。
ダイヤルアップは回線速度が遅いのでトランジットに対する原価が安いのですが、ADSLになるとずっと高価です。大きなバックボーンを持っている企業じゃないと割りに合わなくなってきたんです。
ちょうどソフトバンクが「Yahoo! BB」を大々的にPRしていた頃です。価格破壊も起きていました。そのため、小規模プロバイダが徐々に減り始めました。CDS-Netもプロバイダ事業を閉じ、会社自体も畳む決断をします。とはいえ、その判断は早く、収益があるうちに閉じたことで比較的きれいな幕引きをしたのではないかと思います。
ですが、私にとっては働く会社がなくなるわけで、転職先を探すことになります。実はここでも普通のルートとは違う転職をします。
CDS-Netはエイビットから通信回路の開発を受託していたんです。通信事業者の基地局などに使われる設備の通信回路ですが、その仕事を担当していたのは私でした。その縁もあってエイビットへと転職します。
前職エイビットでsakura.ioの設計を担当、tsumugでも採用
エイビット入社後も、通信機器の開発・設計に携わりました。
エイビットは通信機器、通信用計測機器などを手掛けるメーカーですが、コンシューマー向けの製品もあります。PHSを作っていたと書きましたが、比較的新しい製品だとワイモバイル向けのハート形ケータイ「Heart 401AB」があります。他にも「ストラップフォン」や「イエデンワ」なども作っていましたので、読者にも実際に使われていた方がいるかもしれません。
PHSには外装、回路、ソフトウェアなどさまざまな要素がある上、生産技術も重要です。当然1人で技術面を全て担当したわけではありませんが、仕事の範囲は非常に広かったです。
当時のエイビットには50人ほどの従業員がいましたが、決して大手ではありませんので、1人ひとりが担当する仕事の範囲は多岐に渡ります。私も、製品が生産されるまでの全体的な流れを全て経験できました。エイビットでもネットワーク、回路、ソフトウェアなど、複数の分野でのスキルを培うことができました。
また、サーバー関連の技術も必要でした。CDS-Net時代のスキルが活きたわけです。エイビットでは通信事業者に納入するシステムの開発もしていました。例えば映像配信システムでMPEGのストリーミング配信をするサーバーを構築したり、Javaのプログラムを書いたりと、サーバー周りやWeb関係の仕事があったんです。
tsumug加入後も扱うことになったsakura.io(サクラアイオー)との出会いもエイビット時代です。エイビットはさくらインターネットが提供するIoTプラットフォーム「sakura.io」の通信モジュールの設計を請け負い、私が担当していました。ここでもそれまで培ってきたスキルが活きました。
CDS-Netで約10年、エイビットで約10年、それらの年月で培ってきたスキルを集約したたプロジェクトの1つがsakura.ioかもしれません。自分自身のスキルとさくらインターネットの技術を融合させたプロダクトです。そして、そのsakura.ioはtsumugでも採用されています。
振り返ってみると、これまでに獲得してきたスキルの全てがtsumugに繋がっていることは非常に興味深いですね。(後編に続く)